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2017年4月10日

電気自動車の歴史(中編)

通常のGoGoEVコラムでは、電気自動車の”イマ”を多く取り上げています。それに代わって先々週よりシリーズで電気自動車の歴史を振り返っています。今の電気自動車の形に到るまで、果たしてどのようなストーリーがあったのでしょうか。


前回は電気自動車の起こりから、一時的に姿を消すまでの1度目のブームについてお伝えしました。今回は視点を日本に移して、日本での電気自動車のはしりについてお伝えしていきたいと思います。


○GoGoEV関連コラム:

-電気自動車の歴史(前編)(2017年3月27日付)


1.日本におけるEVの歴史の始まり

日本で姿を見せた初めての電気自動車は、1899年に在日アメリカ人によって輸入された3輪タイプのの米国製"プログレス号"と言われていますが、残念ながら出典が明らかではなく、今のところ定かではありません。


明確な記述が残っているもので1番早いのは、1900年、皇太子殿下(後の大正天皇)のご成婚を記念してサンフランシスコの日本人会から献上された電気自動車です。それは米国ウッズ社製のVictoria号(4輪車)であり、下の図で示すとおりいわゆる”自動車”というより馬車のような形となっています。


仕様としては、29km/hの1.9kW(2.5馬力)であり、販売価格は当時の価格で1900米ドルだったようです。この車は様々なエピソードが残っていますが、その最たるものは試運転時に事故を起こし、試験が中断となったことでしょう。その事故とは坂での試験中にブレーキが効かずに、急ハンドルを切ったためお濠に落ちたというものでした。


ブレーキ自体が故障していたのか、操作が不慣れだったかはわかりませんが、皇太子殿下が乗っていなかったのが不幸中の幸いでした。ただ、その後、そのような事故車に皇太子殿下も天皇陛下も乗ることはなく、Victoria号は宮内庁に保管されたまま、ついぞ走行することはありませんでした。


▲1900年に東京日々新聞にて掲載された東遇殿下に献上された自動車(出典:森本,”我が国で最初に走った電気自動車”)


なお、日本に導入された初めての自動車という点では、1898年にフランスのデネブ技師が持ち込んだガソリン車が確認されています。ただし、その自動車は販売価格の点で折り合いがつかず、試運転のみ行いフランスに持ち帰られたそうです。


その後、当初は海外からの輸入頼りでしたが、国産電気自動車の芽が芽生え始めます。


1908年に東京電燈株式会社(日本初の電力会社)が米国のベイカー社の電気自動車を分解調査のために購入しました。その結果、1911年に国産電気自動車が試作されたと言われています。試作されたという記録は残っているのですが、それがどのような自動車だったかは残念ながら資料が見つかっておりません。


このとき東京の自動車登録数は188台であり(少ない!)、その多くは輸入車であり、国産の自動車は製作が始まったばかりでした。そのような自動車業界自体の黎明期に、電気自動車の開発が進められた事を考えると、電気自動車の可能性は大きく注目されていたと言えるでしょう。


1917年(大正6年)に東京電燈株式会社と日本電池がアメリカから「デトロイト号」を5台購入し、そのうちの2台は日本電池の創業者のひとりである島津源蔵が自社製の電池に積み替えられました。その後30年近くも自家用車として使用されたそうですが、非常に目立つ存在だったそうです。


この自動車は運転席周りがユニークであり、ペダルはパーキングブレーキとブレーキのみで、アクセルは水平バー、ハンドルも同じく水平バーでした。なおこのデトロイト号は2009年に日本電池(GSユアサ)において車両の再生が試みられ、走行できるように修復されました。


▲当時(左)と復刻版(右)のデトロイト号(出典:GSユアサwebサイト)


その後に国産技術で作成された電気自動車が出始めました。詳しくは述べませんが、下記のような電気自動車が出てきたことが確認されています。

 ・1919年の野沢三喜三が制作した「テルコエレクトリック」

 ・1923年のタウンスター(TS)

 ・1924年の尾原条映の試作電気自動車

 ・1927年の神戸港投稿業学校の試作電気自動車


2.普及期

【第二次世界大戦前】

昭和に入ってからは、ますます電気自動車に注目が集まってきます。その理由は、日中戦争(支那事変)が1937年(昭和12年)に勃発し、それによってガソリンが統制されたためでした。中島製作所と湯浅電池が商工省より助成を受けて電気自動車を設計製作しました。この車は量産され、台湾や満州でも使われました。


これに続き1938年(昭和13年)にデンカ号、1939年(昭和14年)に名古屋電気車が相次いで製作されました。昭和10年代には電気自動車は1500台製造されたとも言われています。


▲中島製作所電気自動車(左)とデンカ号(右)


【第二次世界大戦後】

第二次世界大戦後、ガソリンは統制品となり、さらに入手が困難になりました。そのような中、1947年には東京電気自動車が「たま号」を発売します。カタログスペックで出力が36V120A(4.32kW)、最高速度35km/h、一充電走行距離65km(ただし性能試験で96.3kmの好成績を記録しています。)となっています。


ちなみに東京電気自動車はその後、たま電気自動車、プリンス自動車工業と名前を変え、最終的に日産と合併しました。もしかすると、「たま号」は「日産リーフ」の遠い祖先と言えるかも知れません。


▲たま号(出典:日産webサイト)


「たま号」の存在も大きかったのでしょう。この時代の電気自動車の最盛期が1949年で、約3300台の電気自動車が登録されました。これは全登録台数の3%に相当します。2016年の電気自動車とプラグインハイブリッド車の推定普及率が乗用車の約0.2%であることを考えると、現在よりも随分と普及していた時代だったのですね!


3.衰退

その後、1950年の朝鮮戦争勃発に伴い、バッテリーの原料となる鉛が軍需物資となり、入手が難しくなってしまいました。それに対してガソリン供給の統制が1954年に解除されたことで、ガソリン車の利用を妨げるものがなくなり、電気自動車の優位性が薄らいでいきます。その結果、急激に電気自動車の注目度は低下し、1955年には道路運送者両方から、電気自動車の項目が削除され、完全に該当から姿を消した。


しかし、「たま号」発売開始から10年足らずで、それまで普及した電気自動車は一体、どこへ行ったのでしょうか・・・?

と思って、少し関係する資料を調べてみました。その結果、おそらく、自動車の平均寿命から、市場からあっという間に姿を消したのではと考えられます。


それを以下の図で説明します。1976年(昭和51年)以降の自動車の平均寿命のデータを見ると、年々伸びていることがわかります。1979年で平均寿命が約7.9年だったのに比べて、2016年現在では12.8年と、自動車は徐々にではありますが、長持ちになっています。


そこで、このデータを用いて、過去の平均寿命を推定してみましょう。結果が下のグラフの通りです。このグラフが示すのは10年間で寿命が1.2年伸びており、それを逆算すると、たま号が発売された1947年では3.9年、電気自動車が姿を消した1955年でも4.9年ということになります。


このような単純推定の正確性については議論が残りますが、それでもなお、当時の新技術であった電気自動車の故障率が高く、そんなに長く使えなかったのではないかというのは想像に難くありません。と考えれば、電気自動車の入手が難しくなり始めた1950年代以降、徐々に電気自動車の姿が消していったということは十分に考えられます。


▲乗用車の平均寿命と、過去の寿命の推定


4.まとめ

以上、本日のコラムを纏めますと、以下のようなことがわかりました。


・電気自動車が日本に導入された当初、ガソリン車と電気自動車では優位性にそれほど差がなく、電気自動車の期待度は高かった。

・1930~1940年代に多くの電気自動車がつくられ、現代の電気自動車につながる礎が築かれた。

・電気自動車の衰勢は世界情勢に影響を受けていた


さて、今回は1900年代から1950年代にかけて、日本における電気自動車の起こりから一時衰退までの流れについて見てきました。こんなにも大きく世界の情勢で浮沈していたんですね。続きはいよいよ再び電気自動車が注目され、現代に至るまでの流れをお送りしたいと思います。


●参考ウェブサイト

-森本雅之,”我が国で最初に走った電気自動車”,電気学会研究会資料. SPC, 半導体電力変換研究会(2012)

-GSユアサHP

-日産HP

-次世代自動車振興センター

-自動車検査登録情報協会

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